シンポジウム

一覧へ戻る前のページへ戻る

2006年(平成18年)2月13日

創立30周年記念シンポジウム「日本酪農の基盤を考える」

基調講演『深まる国際化と近未来の日本酪農』

東京大学大学院教授 生源寺 眞一 氏

1.日本酪農の到達点

酪農経営の規模は1960年の2頭から2005年には60頭に、この40年間で30倍に拡大しました。おそらく、これほど急速に成長を遂げた農業部門は世界的にも多くないと思われます。また、2004年の1経営当たりの経産牛頭数は北海道63頭、都府県32頭でEUの平均規模水準を凌駕するにまで達しています。もはや酪農の世界では、一同が規模拡大を目指す時代は過去のものといっても過言ではありません。農業経済学では農業技術を大きくバイオケミカル(生物学的・化学的)技術とメカニカル(工学的・機械的)技術の2つに分けることが多いのですが、日本の酪農にはこの2つの技術が比較的バランスよく発達してきたという特徴があります。このことは日本の酪農家の技術適応力の高さを現しており、その結果が酪農経営の急成長につながったといえるでしょう。

その酪農が、日本農業の基幹部門である稲作と比べてどのレベルにあるのかという話をしたいと思います。まず、投下労働時間基準でみると経産牛1頭は稲作30~40aに相当します。所得形成力でみても40~50aになります。そこで経産牛1頭を稲作面積40aとすると、北海道の酪農経営の平均規模は25haの稲作面積、都府県の酪農経営は13haの稲作農家に相当します。日本の稲作農家の平均面積は1haを少し超えるほどですので、酪農経営はすでに稲作農家の10~20倍の規模であるといえます。

また酪農が成長してきた過去40年間は、食生活の大きな変化の歴史でもあります。1960年の牛乳・乳製品消費量は1人当たり22kg(生乳換算)でしたが2000年には94kgと約4倍に、また牛肉消費量は1.1kgから7.6kgへと約7倍に増加しています。これらの食材を提供しているのが酪農であり、日本の食生活を支えてきた最大の貢献者といえます。おそらく、これだけ短期間に急激な食生活の変化を経験した国は歴史上なかったのではないかと思います。ただし、今後は同じような変化を経験する地域が現れるかもしれません。すでにアジアの国や地域では変化が始まっています。これらの地域では、日本と同様に食生活の大きな変化が起きる可能性も考えられます。

2.日本酪農への期待

日本酪農の特徴はしっかりした担い手を確保しているということです。酪農経営主の平均年齢をみると、北海道は49.5歳、都府県は54.9歳です(2004年、酪農全国基礎調査)。少子高齢社会で経営主の年齢がこれだけ若いのは、他の農業にはみられない特徴です。ちなみに農業全体では、基幹的農業従事者(男性)の55.5%は65歳以上に達しています(2000年)。また酪農は新規参入者も多く見受けられ、その点でも大変評価されてしかるべきです。

農地の有効利用も酪農部門が支えています。耕作放棄地がついに東京都の面積を超えたといわれる昨今ですが、酪農経営面積に占める借地比率は北海道で21%、都府県で48%もあります(2001年、酪農全国基礎調査)。集落営農において酪農家が大型機械作業のオペレータを行っていたり、飼料生産に転作田を活用したりしている場面も多くみられます。

担い手が確保され、農地を有効に利用しているということは、日本の食料自給力を支えることにもつながります。牛乳・乳製品は完全栄養食品に近く、一番弱い立場の乳児や幼児への栄養補給にも優れています。また堆肥による地力確保も不測の事態では重要な意味を持ってくるでしょう。本来、食料安全保障は、食料だけではなく生産資材や伝統的な生産方法なども含めた幅広い内容を備えるべきものですが、まさしく酪農にはそれらを兼ね備えた機能が期待できると考えます。

話は一変しますが、人間にとって最も重要な要素である家族が崩壊しつつある日本社会において、酪農は家族を中心とした経営が多く、私も素晴らしい家族の酪農家を少なからず知っています。そのような家族酪農は日本社会にとって重要なモデルになると期待しています。また、酪農経営は土地利用型、食品残渣を多用するタイプ、メガファーム、消費者や教育現場に牧場を開放するなど、非常に多様化しています。一様な集団は弱い側面を持っていますが、多様化することで全体としての適応力が確保できるのです。この多様化は経営主が積極的に経営形態を選択した結果であり、これが日本酪農の粘り強さにつながっているのだろうと思います。

3.日本酪農の課題:問われるトータルシステムの品質と効率

21世紀に入り、食の安心・安全の問題がクローズアップされています。その背景には食と農の距離の拡大があります。物理的な距離の拡大だけではなく、産業連関的な距離も拡大しています。つまり、農林水産業から食品の加工・流通・外食を経て、食卓に至るまでの産業の厚みが増してきたということです。日本で食費として支出される金額は年間約80兆円で安定していますが、そのうち一番川上に当たる農業に支払われる割合は2割、残りの8割は食品加工・流通や外食産業などが吸収しています。それほど食品産業には厚みがあります。逆にこの厚みが食品産業と消費者のあいだに情報の量と咀嚼力(理解力)の両面にギャップを生じさせてしまうのです。

こういう状況で、酪農・乳業が国内外含めて様々なライバルに対して競争力をつけるには、さらなる品質確保が重要です。この場合、単に最終製品の品質だけの問題ではありません。つまり農場や乳業工場での生産工程や管理体制の品質が問われ、そのなかには農場の環境保全や家畜福祉への配慮も含まれる可能性があります。今や消費者は食品そのものの品質だけではなく、生産工程上の品質や健全性にも関心を寄せており、それに応えることも求められつつあります。環境保全型農業への取組みなども政策の後押しだけではなく、消費者の選択によって促されるという観点が自然だろうと考えます。

新しい食料・農業・農村基本計画の工程表には、農産物および低加工水準の食品に対するトレーサビリティのカバー率を2007年度までに5割にするという目標が掲げられています。政府としても食供給システムのレベルを確保することで、国内農産物が消費者により深い形で支持されることを促そうとしているといえます。これからは食の供給システム全体の品質が問われる時代になりつつあるのだと思います。

4.酪農政策の課題:ふところの深い国際化対応を目指して

昨年3月に食料・農業・農村基本計画が閣議決定され、10月には経営所得安定対策等大綱が省議決定されるなど、農政改革の全体像が固まりつつあります。このなかで話題を呼んでいるのが2007年度から実施される品目横断的経営安定対策です。これは、「諸外国との生産条件格差を是正するための対策」を「国際規律の強化にも対応しうる政策体系」として導入するものです。この対策は関税でブロックされずに入ってくる海外農産物のコスト水準が国内市場に影響する場合に補填する要素と、国内の価格変動を平準化する要素の2つを組み合わせて設計されています。実はこの品目横断的経営安定対策は担い手政策という大きな概念のなかにある経営安定対策の一部門にしか過ぎません。経営安定対策を具体化する場合、多くの農家は複数の品目を作っているため、品目を超えた対策が必要という考えから品目横断的な政策とされたのです。しかし、酪農はほとんどが生乳生産に特化しているため、経営安定対策を講じるとすれば、品目特定的にならざるを得ません。つまり、経営安定対策という考え方は同じですが、それを具体化すると品目横断的安定対策のケースと品目特定的な政策の2つがあるということになります。

農政改革の議論では、稲作や畑作農家に対しては具体的な対策を打つまでに至っています。具体性を示すことは、農業交渉においても相手側に暗にシグナルを示すことにつながりますから、慎重な扱いが必要です。今後、仮に国境措置の置き換えが進み、顕在化された部分が大きくなるとしても、あらかじめ対応の準備があるという点では、ウルグアイラウンド交渉時の日本政府の対応よりかなり前進したといえます。しかし、酪農のような部門専業的な農業については、具体的方向を打ち出すまでに至っていません。WTO交渉もヤマ場が近付いている状況においては、どんな状況になろうとも日本酪農のあるべき姿に向けてバックアップする姿勢を鮮明にすると同時に、それを裏付ける政策を示す必要があります。具体性を示すにはさらなる議論が必要ですが、例えば一元集荷多元販売の制度を利用して戦略的な価格を設定しながら全体の所得の確保を図り、それでも補えない部分に直接支払いを検討するなどという思考も必要だと思います。その点でEUは酪農部門においても生産から切り離したデカップリングによる直接支払い制度への移行が急がれており、わが国の酪農部門においても制度を見直す場合の参考になるでしょう。

環境政策についてもEUが先行しており、日本はそれを追う形で制度・政策を整えつつあります。すでに新しい食料・農業・農村基本計画には農業者自ら達成すべき環境基準が設定されており、今後はその基準の達成を要件に様々な支援を行う(クロスコンプライアンス)ことも決定されています。日本は環境先進国の手法に学びながら制度を設計してきましたが、日本の場合、環境保全型農業と同時に食料自給率向上のための食料政策を充実させなければいけません。この対極的な2つの課題を同時に達成することが求められるのです。これはEUより難しい課題に挑戦しているといってもよく、また先進国のなかでは非常に特異な状況といえます。ただし、この状況はアジアや途上国が抱えている食料・環境問題ともに共通しており、日本の苦労や経験が役に立つことがあると思います。また共同の取組みや共通政策も可能かもしれません。

最後に国際化対応ですが、攻めてくるものにどう応戦するかという問題と同時に、成長著しいアジアの国々とのあいだの食と農の共存共栄という観点を強調したいと思います。今後、アジア諸国は経済成長が順調に進むにつれて所得水準が向上し、畜産物の需要も増加し、しかも高品質志向に移るでしょう。また成長が進む国では農業が確実に衰えます。これは賃金が上がり地価が上がることで、安い賃金と安い土地で支えられてきた農業の競争力が次第に掘り崩されるからです。これは日本の農業が過去半世紀に経験したことであり、今後はさらに東アジア諸国と日本のポジションが接近してくると思われます。今後、日本がアジア諸国の経済成長をバックアップする体制を築き、食と農の共存共栄を図ることができれば、東アジア共同体構想の実現のためにも非常に有効です。このことはおそらくアジアの福祉という点からも望ましいことです。そのためにも日本は自らの置かれている環境や農業・食料問題を正確に認識し、マーケットの開拓や日本の農産物や食品の強みを様々な形でプロモートしていく必要があると思います。

東アジア共同体の構想はバックグラウンドの違いから実現は難しいという議論もあります。しかし、食と農という分野は国を隔てていてもモンスーンアジアのなかでは共通点を持ちやすい分野です。こうした農産物や食品の分野から双方向の取引を行い共同体構築に向けた取組みを進めることは、少し長い目で将来をみたときの日本の食料・農業の基本的な課題だと思います。

一覧へ戻る前のページへ戻る